2020年4月30日木曜日

街区表示板と鉄道の旅 大阪市24区編 第16回 都島区

今回は「街区表示板と鉄道の旅 大阪市24区編」の記事でありますが、今回の記事の撮影日を記載していない画像はすべて2020年2月23日の撮影ですので、何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。

「街区表示板と鉄道の旅 大阪市24区編」の第16回となる今回は都島区でありますが、都島区は22区制となった1943年4月に当時の北区の一部と旭区の一部を分離・再編して誕生した区であります(詳しくはWikipediaをご覧ください)。


それでは今回の都島区最初の街区表示板は左の画像の「都島区東野田町二丁目1」であります。


その「都島区東野田町二丁目1」の住所に該当するのは京阪電鉄京阪本線京橋駅であります。こちらの上の画像は京阪電鉄京阪本線京橋駅の中央口を撮影したものです。


こちらの上の画像は京阪電鉄京阪本線京橋駅中央口の切符売り場であります。


こちらの上の画像は京阪電鉄京阪本線京橋駅中央口の改札口であります。


京阪電鉄京阪本線京橋駅は島式ホーム2面4線の高架駅となっております。こちらの上の画像は淀屋橋・中之島方面3・4番のりばの上り線ホームから撮影したものであります。


こちらの上の画像は出町柳方面下り線ホーム2番のりばに停車する1900系特急色萱島行き区間急行です。(2008年9月28日撮影)


こちらの上の画像は出町柳方面下り線ホーム2番のりばのプレミアムカー乗車口と売店型コンビニのアンスリーであります。


この京阪京橋駅出町柳方面下りホームにある売店の名物となっているのがフランクフルトで、自分も買って美味しくいただきました。


こちらの上の画像は京阪電鉄京阪本線京橋駅西側の改札となる片町口へ繋がる上下線の出口を撮影したものです。片町口は京橋駅が高架化される以前に存在した片町駅の代替として設置された改札口で、大阪メトロ長堀鶴見緑地線京橋駅との乗換えに便利な改札であります。


こちらの上の画像は京阪電鉄京阪本線京橋駅片町口の2階改札口を改札内から撮影したものです。


こちらの上の画像は京阪電鉄京阪本線京橋駅片町口の切符売り場を撮影したものです。


こちらの上の画像は京阪電鉄京阪本線京橋駅片町口2階の駅名標を撮影したものです。


こちらの上の画像は京阪電鉄京阪本線京橋駅片町口1階の出入口を撮影したものです。


次はほんの少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「都島区東野田町二丁目6」であります。


その「都島区東野田町二丁目6」の住所に該当するのは大阪メトロ長堀鶴見緑地線京橋駅であります。こちらの上の画像は大阪メトロ長堀鶴見緑地線京橋駅3号出入口であります。


こちらの上の画像は大阪メトロ長堀鶴見緑地線京橋駅の地下2階のコンコースと直結している商業施設のコムズガーデンで、地下2階分が商業施設で、地下街としては珍しく吹き抜け構造となっており、地上1階は京橋公園となっております。また京阪京橋駅へも地下通路で繋がっております。


こちらの上の画像は大阪メトロ長堀鶴見緑地線京橋駅の切符売り場と改札口であります。


改札口を入ると桜の花のタイル壁画が飾られています。


大阪メトロ長堀鶴見緑地線京橋駅は島式ホーム1面2線となっております。


こちらの上の画像は大阪メトロ長堀鶴見緑地線京橋駅の駅名標と70系を絡めて撮影したものです。


次は少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「都島区東野田町五丁目1」であります。


その「都島区東野田町五丁目1」の住所に該当するのは旧国鉄淀川連絡線(淀川貨物線)跡であります。旧国鉄淀川連絡線(淀川貨物線)はかつて旧国鉄淀川駅(貨物駅)と隣接する初代淀川電車区と城東貨物線・片町線(現在の学研都市線)・大阪環状線を結んだ連絡線で、現在は遊歩道となっており、こちらの上の画像は新京橋商店街から旧国鉄淀川駅(貨物駅)・初代淀川電車区側を撮影したものです。旧国鉄淀川連絡線(淀川貨物線)について詳しくはWikipediaをご覧ください。


こちらの上の画像は同じく新京橋商店街から反対側の旧巽信号所側を撮影したものです。


そして、旧国鉄淀川駅(貨物駅)・初代淀川電車区方面へ少し歩きますと左手に上の画像のモニュメントが見えてきます。


そのモニュメントには「淀川連絡線跡遊歩道 本遊歩道は、昭和57年(1982年)に廃止された旧日本国有鉄道淀川連絡線の一部を自転車歩行者専用道として平成12年度より整備したものです。 平成17年 大阪市建設局」と書かれております(実際には昭和60年(1985年)3月14日に淀川電車区が移転されるまで同電車区への出入区線として存続してました)。


更に旧国鉄淀川駅(貨物駅)・初代淀川電車区方面へ歩いて行きます。


途中まで歩きますと上の画像の柵が現れまして、その先は旧国鉄淀川駅(貨物駅)・初代淀川電車区の跡地までほぼ更地となっております。


そして、同じ場所で振り向きますと駐輪場となっておりまして、その奥には大阪環状線京橋駅から桜ノ宮駅へ向かってすぐに分岐する旧国鉄淀川連絡線の橋台跡が写っているのが確認できます。


こちらの上の画像は先ほどの橋台跡を大阪環状線の側道から撮影したものです。


次も少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「都島区中野町五丁目1」であります。


その「都島区中野町五丁目1」の住所に該当するのはJR大阪環状線桜ノ宮駅であります。こちらの上の画像はJR大阪環状線桜ノ宮駅東口北側を撮影したものです。


こちらの上の画像はJR大阪環状線桜ノ宮駅東口南側を撮影したものです。


こちらの上の画像はJR大阪環状線桜ノ宮駅東口の改札口を撮影したものです。


こちらの上の画像はJR大阪環状線桜ノ宮駅西口を撮影したものです。こちらの西口は毎年春の造幣局の桜の通り抜けや夏の天神祭の際はかなり混雑することで知られています。


こちらの上の画像はJR大阪環状線桜ノ宮駅西口の改札口を撮影したものです。


JR大阪環状線桜ノ宮駅は相対式2面2線ホームを有した高架駅となっております。


JR大阪環状線桜ノ宮駅のホームの上屋の柱の一部にレールを再利用したものが使われており、この桜ノ宮駅の東側のものは特徴のある形状のものとなっております。


西側に行きますとレールを再利用したものでなく、通常の鉄骨のもとなっており、奥の東側にはレールを再利用したものが写っております。


こちらの上の画像は大川橋梁を渡る323系です。


またこのJR桜ノ宮駅周辺にも鉄道遺構がありまして、JR桜ノ宮駅東口北側から京橋寄りにJR大阪環状線のガード下の側道を少し歩きますとこちらの上の画像のガード下のお店が並んでいる場所に辿り着きます。この画像の右端のお店と中央よりやや左のお店の間にあるガードの橋脚が「京阪電鉄乗越橋」でありますが、この「京阪電鉄乗越橋」はかつて京阪電鉄が梅田乗り入れを計画していた際に当時の国鉄城東線(現在のJR大阪環状線)の下をくぐる予定だったことから京阪電鉄が設置費を負担した乗越橋(ガード)であります。詳しくはWikipediaをご覧ください。


こちらの上の画像は「京阪電鉄乗越橋」の下の北側のお店の間にある京阪電鉄がくぐる予定だった場所を拡大して撮影したものです。


こちらの上の画像は「京阪電鉄乗越橋」の下の京阪電鉄がくぐる予定だった場所を南側から撮影したもので、手前の煉瓦積みの部分は現在のJR大阪環状線の高架化される以前にあった内側の旧線の頃のものと思われます。


こちらの上の画像は北側のガードにある「京阪電鉄乗越橋」の名板です。


こちらの上の画像は橋桁にある経歴板で、拡大してもピントが甘くてほとんど文字が判別できませんでしたが、、上の段から四段目の「鐡道省」だけは自分にもどうにか判別できました。。


こちらの上の画像の煉瓦造りの橋台は現在のJR大阪環状線のガードのすぐ隣のものは高架化以前にあった旧線の頃のもので、その内側にある2線分の橋台はかつて存在した関西鉄道桜ノ宮線の橋台です。関西鉄道桜ノ宮線は買収した旧浪速鉄道(現在のJR片町線(学研都市線))放出駅から現在のJR片町線(学研都市線)とJRおおさか東線が分岐する寝屋川の北側辺りで片町線と分岐し、そこから現在の国道1号線蒲生2の交差点辺りで現在の国道1号線に沿って西に向かい、現在の大阪市立東高等学校の場所にあった網島駅を経由して桜ノ宮駅を結ぶ路線だったそうで、恐らくこの辺りから現在のJR大阪環状線と分岐していたのではないかと思われます。かつて存在した桜ノ宮線と網島駅について詳しくはwikipedia(網島駅)をご覧ください。


こちらは上の画像の場所はJR桜ノ宮駅西口の大川沿いですが、こちらにも煉瓦積みの橋台が残されておりました。


次も少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「都島区都島本通三丁目22」であります。(2019年6月2日撮影)


その「都島区都島本通三丁目22」の住所に該当するのは大阪メトロ谷町線都島駅であります。こちらの上の画像は大阪メトロ谷町線都島駅1号出入口を撮影したものです。(2019年6月2日撮影)


こちらの上の画像は左から大阪メトロ谷町線都島駅の切符売り場と隣は売店を引き継いで営業している大手コンビニのローソンです。


こちらの上の画像は大阪メトロ谷町線都島駅の改札口です。


大阪メトロ谷町線都島駅のホームは島式ホーム1面2線となっており、こちら上の画像は東梅田・天王寺・八尾南方面行きの1番のりばを撮影したものです。


こちらの上の画像は大日方面行きの2番のりばで、大日行きの22系が入線してくるところを撮影したものです。この都島駅の大日寄りには折り返し線があり、都島始発の列車も設定されています。本来は折り返し線を撮影したものを貼らないといけないのですが、撮影するのを忘れてしまいました。。いつもながら詰めが甘いです。。


こちらの上の画像は大阪メトロ谷町線都島駅の地上にある都島本通の交差点を南西側から撮影したもので、東西の道路が都島通、南北の道路が赤川天王寺線ですが、かつて大阪市電が走っていた頃のこの都島本通交差点には都島通西側が梅田善源寺町線、赤川天王寺線北側が都島守口線、赤川天王寺線南側に東野田沢上江町線が通っており、この都島本通交差点を多くの電車が行き交っていたそうです。


こちらの上の画像は先ほどの都島本通の交差点から都島通を少し西に歩いたところにある現在の大阪市立総合医療センターですが、この辺りにはかつて大阪市電都島車庫があったそうです。


こちらの上の画像はさらに都島通を少し西に歩いたところにある桜ノ宮リバーシティと呼ばれるマンション群で、この辺りはかつて旧国鉄淀川貨物駅と淀川電車区があった場所です。


次も少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「都島区内代町一丁目7」であります。(2019年12月15日撮影)


その「都島区内代町一丁目7」の住所に該当するのは大阪メトロ谷町線野江内代駅であります。この大阪メトロ谷町線野江内代駅の駅名は城東区野江と都島区内代町の地名を合成したもので、こちらの上の画像は街区表示板にある「都島区内代町一丁目7」にある大阪メトロ谷町線野江内代駅2号出入口を撮影したものです。(2019年12月15日撮影)


こちらの上の画像は大阪メトロ谷町線野江内代駅の切符売り場と改札口を撮影したものです。


大阪メトロ谷町線野江内代駅のホームは島式ホーム1面2線で、こちらの上の画像は八尾南方面の1番のりばに停車する30000系八尾南行きを撮影したものです。


次はそれなりに移動しまして、左の街区表示板の画像の「都島区網島町7」であります。(2019年6月16日撮影)


その「都島区網島町7」の住所に該当するのはJR東西線大阪城北詰駅であります。このJR東西線大阪城北詰駅は東西線開業と同時に廃止された片町線(学研都市線)片町駅の代替として設置された駅で、その廃止された片町駅近くの都島区片町に1、2号出入口はありますが、こちらの上の画像は所在地と同じく網島町にあるJR東西線大阪城北詰駅3号出入口を撮影したものです。また先ほどJR桜ノ宮駅の鉄道遺構の際に触れました関西鉄道網島駅は現在大阪市立東高等学校のある都島区東野田町四丁目にあり、現在の網島町にはありませんでしたが、網島は都島区南西部の広域地名でもあるそうですので、必ずしも誤りではないそうです。詳しくはWikipedia(大阪城北詰駅)Wikipedia(網島駅)をご覧ください。


こちらの上の画像はJR東西線大阪城北詰駅の切符売り場と改札口を撮影したものです。


JR東西線大阪城北詰駅のホームは島式ホーム1面2線となっております。


こちらの上の画像はJR東西線大阪城北詰駅のホームの壁の駅名標と駅のシンボルである大阪城を築城した豊臣秀吉の馬印に因んだ「瓢箪」を撮影したものです。


こちらの上の画像はJR東西線大阪城北詰駅の駅名標と207系を絡めて撮影したものです。


またこの大阪城北詰駅2号出入口のすぐ北には京阪電鉄京阪本線が走っており、かつてはこの辺りに京阪電鉄の片町駅があったそうで、開業当初は「野田橋駅」という駅名で、駅の場所もこちらの上の画像の南北に走る道路(赤川天王寺線)の東側(こちらの画像には写ってません)にあったそうで、1955年に片町駅に改称されてからこちらの上の画像に写っている西側に移設され、1968年にこちらの上の画像に写っている道路(赤川天王寺線)を走っていた大阪市電東野田沢上江町線が廃止されて京阪京橋駅の高架化工事が始まった頃には再び東側に移設され、京阪京橋駅の高架化が完成された1969年11月30日に廃止されました。


最後はほんの少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「都島区片町二丁目3」であります。(2019年6月16日撮影)


その「都島区片町二丁目3」の住所に該当するのは浪速鉄道(JR片町線(学研都市線))片町駅跡であります。こちらの上の画像は浪速鉄道(JR片町線(学研都市線))片町駅跡を城見通を挟んで西側から撮影したものです。(2019年6月16日撮影)


こちらの上の画像は先ほどのひとつ上の画像の右側の午後の紅茶の看板の左下辺りにあるJR片町線(学研都市線)片町駅跡の説明の看板で、左から「大阪市顕彰史跡第183号 浪速鉄道片町駅跡 (都島区片町1丁目) 片町線(JR学研都市線)は、明治28(1895)年8月22日、浪速鉄道によって片町-四條畷間が結ばれたことに始まる。片町駅は舟運による貨物の利便を考えて、寝屋川と鯰江川に挟まれた場所につくられた。 大阪市教育委員会 (史跡の詳しい内容は大阪市ホームページ www.city.osaka.lg.jpでご覧ください)。」と書かれ、続いて右には「浪速鉄道片町駅跡(都島区片町1丁目) 【大阪市顕彰史跡第183号】 現在の片町線(JR学研都市線)の路線名のもととなった「片町駅」は浪速鉄道の駅であった。同鉄道は、明治26年(1893)に設立され、明治28年(1895)に片町-四條畷間を開通させた。片町駅の場所はかつての新喜多新田の西端部にあたり、南側を寝屋川、北側を鯰江川(現在は道路)に挟まれたところにあった。これは当時、両河川を利用した舟運がまだ大きなウエイトを占めていたためである。明治29年(1896)、浪速鉄道の一切は関西鉄道の所有となり、明治40年(1907)には国の管理下に移された。片町駅は、明治30年代初めに旅客の取扱いをやめ、貨物駅となったこともあったが、平成9年(1997)、大阪城北詰駅の開業をもって姿を消した。」と書かれ、その下には明治末期の片町駅(『片町線・草津線・関西本線そのルーツと鉄道文化を探る』より)の配線図が掲載されていました。(2019年6月16日撮影)


今回の都島区の鉄道事情は都心に近い南部の利便性が高く、反対に北部は大阪市電が廃止された1969年3月31日から長年鉄道空白地帯が続いた状態でしたが、2019年3月16日にJRおおさか東線の新大阪-放出間の延伸したことにより、所在地は旭区ですが、都島区との区界の場所にある城北公園通駅が開業しましたので都島区北部の鉄道事情は格段に良くなったといえると思います。またこの都島区を訪問して思ったことは鉄道遺構が多く残っていることでして、それらの鉄道遺構を通して鉄道の歴史を改めて勉強する機会にもなりましたので、個人的には訪問して良かったかなと思っております。


今回はこれまで以上に詰めが甘く、記事の内容・画像ともこれまで以上に粗くなってしまい本当に申し訳ございません。この「街区表示板と鉄道の旅 大阪市24区編」も現在の状況では撮影に出ることができず、来月以降は続けることが困難となりましたので、一旦お休みとさせていただきます。何卒ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。


また通常の記事に関しましてもしばらくは過去に撮影した画像などを使って更新できればと思っておりますので、何卒ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。


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