2020年11月30日月曜日

街区表示板と鉄道の旅 大阪市24区編 第20回 平野区

今回は最近月末恒例ともなっております「街区表示板と鉄道の旅 大阪市24区編」の記事となりますが、第20回となる今回は平野区でございます。今回の平野区は1974年7月22日に東住吉区から分区されて誕生した区で、1925年4月1日の大阪市第2次市域拡張によって当時の住吉区に編入された東成郡平野郷町と喜連村、1955年4月3日の大阪市第3次市域拡張によって当時の東住吉区に編入された中河内郡加美村、瓜破村、長吉村だった地域が現在の区域となっております(詳しくはWikipediaをご覧ください)。


それでは今回の平野区最初の街区表示板は左の画像の「平野区加美東四丁目9」であります。


その「平野区加美東四丁目9」の住所に該当するのはJRおおさか東線新加美駅で、こちらの上の画像はJRおおさか東線新加美駅の外観を撮影したものです。


こちらの上の画像はJRおおさか東線新加美駅の切符売り場と改札口を撮影したものです。


このJRおおさか東線新加美駅のホームは相対式ホーム2面2線となっており。こちらの上の画像は新加美駅2番ホーム中央付近から久宝寺寄りを撮影したものです。


こちらの上の画像は同じく新加美駅2番ホームから201系新大阪行きを後追いで撮影したものです。


次はほんの少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「平野区加美鞍作一丁目1」であります。


その「平野区加美鞍作一丁目1」の住所に該当するのはJR関西本線(大和路線)加美駅であります。こちらの上の画像はJR関西本線(大和路線)加美駅の南口を撮影したもので、2016年に改修工事が完了して新しい外観になりました。


こちらの上の画像はJR関西本線(大和路線)加美駅の北口を撮影したもので、こちらは昭和末期の国鉄時代からほぼ変わらない佇まいであります。


こちらの上の画像は先ほどの加美駅の北口を少し東へ行った場所から撮影したものですが、右の221系が走る地上線がJR関西本線(大和路線)で、左の高架線がJRおおさか東線となっており、このJR関西本線(大和路線)加美駅と先ほど取り上げたJRおおさか東線新加美駅は約100mとかなり近い距離に位置しております。


こちらの上の画像はJR関西本線(大和路線)加美駅の改札口であります。


このJR関西本線(大和路線)加美駅のホームは相対式ホーム2面2線となっております。こちらの上の画像は加美駅2番ホーム中央付近からJR難波寄りを撮影したものです。


こちらの上の画像は同じく加美駅2番ホームから!03系柏原行きを2007年に撮影したものです。


そして、加美駅南東側には2009年に廃止された阪和貨物線跡がありますので、少し歩いて阪和貨物線跡を所々撮影しました。こちらの上の画像は南加美踏切があった場所で、警報機も残されたままです。


こちらの上の画像は先ほどの南加美踏切があった場所から東側を臨んだところで、線路も撤去されて更地となっておりました。そして、画像の奥に見えている高架橋は現在のJRおおさか東線で、JRおおさか東線も元々城東貨物線だった路線を旅客化して誕生した路線ですので、廃線となった阪和貨物線とは明暗を分ける形となりました。


こちらの上の画像は先ほどの南加美踏切があった場所から西側を臨んだところで、こちら側はまだ架線柱が残っていました。


こちらの上の画像は先ほどの南加美踏切から少し南へ歩いた場所ですが、架線柱には蔦が絡まっているという如何にも廃線跡という様相を呈しておりました。


そして、こちらの上の画像は先ほどの場所から更に少し南へ歩いた場所ですが、コンクリートの高架橋は架線柱に架線がないだけの比較的きれいな状態で残っていました。


そして、国道25号線と交差する地点を撮影しました。撮影したのは今年の7月5日で、当日はそれほど暑くなかったのですが、マスクを着用しながら歩くことが予想以上に疲れましたのでこの場所で阪和貨物線跡の撮影を打ち切りました。


次は少し移動しまして、街区表示板が日焼けで色が抜けてしまって文字もかなり読みづらいですが、左の街区表示板の画像の「平野区平野元町9」であります。


その「平野区平野元町9」の住所に該当するのはJR関西本線(大和路線)平野駅で、こちらの上の画像はJR関西本線(大和路線)平野駅の北口を撮影したものです。


こちらの上の画像はJR関西本線(大和路線)平野駅の南口のロータリーを撮影したものです。


こちらの上の画像はJR関西本線(大和路線)平野駅の南口を撮影したものです。


こちらの上の画像はJR関西本線(大和路線)平野駅の改札口と切符売り場を撮影したものです。


このJR関西本線(大和路線)平野駅のホームは単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームとなっており、天王寺・JR難波方面1番ホームと王寺・奈良方面2番ホームの間には天王寺・JR難波方面への通過線が1線あります。こちらの上の画像は天王寺・JR難波方面1番ホームからJR難波寄りを撮影したものです。


こちらの上の画像は2番ホームに停車する201系と通過線を通過する221系を撮影したものです。


こちらの上の画像は天王寺・JR難波方面1番ホームから奈良寄りを撮影したものです。


こちらの上の画像は天王寺・JR難波方面1番ホームからJR難波寄りを橋上駅舎を入れて撮影したものです。橋上駅舎を入れて撮影すると天王寺・JR難波方面1番ホームと王寺・奈良方面2・3番ホームの位置が違うことが確認できます。


こちらの上の画像は王寺・奈良方面2・3番ホームから天王寺・JR難波方面を撮影したものですが、3番のりばの北側には更に2線の線路があるのが確認できます。この2線の線路は平野駅の西にある百済貨物ターミナルへ続く貨物支線となっております。


こちらの上の画像も王寺・奈良方面2・3番ホームから天王寺・JR難波方面を撮影したものですが、平野駅の駅名標と201系を絡めて撮影したものです。


そして、先ほどの貨物線2線のうちの北側の1線はこの平野駅構内で行き止まりとなっております。


そして、もう1線の貨物線はそのまま正覚寺信号所を経由して現在のおおさか東線へと続いております。こちらの上の画像は王寺・奈良方面2・3番ホームの天王寺・JR難波寄りから王寺・奈良方面を撮影したものです。


こちらの上の画像は天王寺・JR難波方面1番ホームに停車する103系を2007年に撮影したものです。


そして、1番ホームの奈良寄りには上の画像のものがあり、右のものは上が十字で下に「安全第一 平野駅」と書かれたもので、左のものは下に「鐡道院」と書かれた白い柱のようなものとなっております。


この白い柱のようなものを斜めから見ますと北側の「鐡道院」の文字の他に東側にも何か文字が書かれているのが確認できます。


こちらの左の画像は東側の面を撮影したものですが、このままだと文字が判別し難いので次からの画像で少し拡大して見てみたいと思います。


そして、こちらの左の画像は先ほどの東側の面の上半分を拡大したもので、「明治四十五年」と記されているのが確認できます。


こちらの左の画像は先ほどの東側の面の下半分を拡大したもので、先ほどと比べると少し判別し難いのですが、「横河橋梁製作所」と記されているのが確認できます。この記されている「横河橋梁製作所」は現在の横河ブリッジで、東京の隅田川に架かる勝鬨橋、明石海峡大橋、阪堺電車の大和川橋梁などの橋梁や駅の跨線橋も多数出がけている会社(横河ブリッジについて詳しくはWikipediaをご覧ください)で、この白い柱のようなものは以前利用されていた跨線橋の支柱の一部を保存しているということなります。


次も少し移動しまして、こちらの街区表示板も葉っぱで住所が隠れてしまってますが、左の街区表示板の画像の「平野区平野本町二丁目3」であります。


その「平野区平野本町二丁目3」の住所に該当するのは南海電鉄平野線平野駅跡地のプロムナード平野で、こちらの上の画像はこちらの上の画像は街区表示板の住所にある南海電鉄平野線平野駅跡地のプロムナード平野の入口で、南海電鉄平野線があった当時は踏切があった場所になるそうです。


こちらの上の画像は先ほどの入口の場所より少し東側の場所から西側を見て撮影したものですが、遊歩道の床には線路が描かれてあり、信号機を模したオブジェも確認できます。


先ほど撮影した場所の南側には広場があり、現役当時の南海平野駅の駅舎の八角形の屋根を模した屋根のあるベンチに、壁には当時平野線で走っていた電車が描かれていました。

そして、壁に描かれた電車は現役時代に阪堺線や平野線で活躍したモ205形モ223でした。


そして、モ205形モ223の絵の左横には「平野線とモ205型電車」という説明板があり、「南海平野線は大正3年4月26日 今池・平野間の開業以来、大阪市南東部の重要な足として地域の人々に親しまれてきましたが、地下鉄谷町線天王寺・八尾南間の開通により昭和55年11月28日、66年の歴史に幕をとじました。 モ205型電車は、開業当初の木造車を昭和10年代に鋼製化したもので、通称<改造車>とよばれ平野線で活躍しました。 また広場中央の照明塔屋根は八角形の欧風木造建築物として建築史上もユニークな平野駅駅舎のイメージをとり入れたものです。」という説明文がありました。


こちらの上の画像は先ほどの広場の場所から東側を臨んだもので、当時の終点となる南海平野線平野駅の方を見る格好となります。


こちらの上の画像は南海平野線平野駅の出入口となる駅舎があった場所で、現在は画像の右側にある場所に古いレールを利用した藤棚が作られています。


古いレールを利用した藤棚の下で床に描かれた線路は終わっていました。


また古いレールを利用した藤棚の下には石碑があり、下に右から「プロムナード平野 大阪市平野区平野本町二丁目」と書かれてあり、上は「摂州平野大絵図 宝暦十三年(一七六三年)」と書かれた江戸時代の平野の地図がありました。


こちらの上の画像は先ほどの「摂州平野大絵図 宝暦十三年(一七六三年)」と書かれた江戸時代の平野の地図を拡大して撮影したものです。


こちらの上の画像は先ほどの石碑の裏側で、下に「平野郷町 西脇口」と書かれてあり、その上には説明文が記されていました。


そして、その「平野郷町 西脇口」と書かれた上の説明文は「この辺りは平野郷町から住吉堺に通じる西脇口の木戸がありました。戦国時代、堺とともに自治都市として栄えた平野郷は、自衛のため周囲に土居と濠をめぐらしていました。濠の間には13ケ所の出入口が設けられ、大坂奈良などの各地と、街道で結ばれていました。江戸時代には、綿産業の中心地として、独自の在郷町文化が生まれています。」と記されていました。


そして、こちらの上の画像は同じく南海平野線西平野駅の跡地となる背戸口公園で、先ほどの南海平野線平野駅の跡地のプロムナード平野の今池よりからは一旦途切れて西へ200mほど行ったところにあります(住所は平野区背戸口五丁目2となりますが、見つかりませんでしたので街区表示板はなしということで。。)。


こちらの西平野駅の跡地となる背戸口公園にも先ほどの平野駅の跡地となるプロムナード平野と同様に遊歩道の床には線路が描かれてあります。


そして、こちらの広場の壁には南海平野線の路線図が描かれており、駅名はすべてひらがなで表記されていました。


こちらの上の画像は先ほどの南海平野線平野駅の跡地のプロムナード平野の方に戻りまして、プロムナード平野の南側を撮影したもので、現在も商店街となっており、商店が立ち並んでおります。


こちらの上の画像は先ほどの商店街の商店街名の入った照明ですが、上には英語で「NANKAI MALL」、下には漢字で「平野南海」と書かれており、今年で南海平野線が廃線となってから40年になりましたが、この商店街の照明もこの場所に南海平野駅があったことの名残りとなっております。自分もあの頃の平野線に乗ってみたかったなぁと今回訪問して改めて思いました。


次も少し移動しまして、本来は「平野区平野西五丁目2」の街区表示板を掲載したかったのですが、自分には見つけられませんでしたので、1番違いの左の街区表示板の画像の「平野区平野西五丁目1」であります。


その1番違いの「平野区平野西五丁目1」の住所に該当するのは大阪メトロ谷町線平野駅で、こちらの上の画像は大阪メトロ谷町線平野駅6号出入口であります。この大阪メトロ谷町線平野駅は先ほどの南海平野線平野駅(平野停留場)と隣の西平野駅(西平野停留場)を引き継ぐ形で開業した駅ですが、場所的には終点の平野駅(平野停留場)より西平野駅(西平野停留場)の方が近い距離にあります。


こちらの上の画像は大阪メトロ谷町線平野駅の改札口です。


この大阪メトロ谷町線平野駅の壁には大阪メトロ各線の車両と大阪シティバスの車両のかわいいイラストが貼られていました。


この大阪メトロ谷町線平野駅のホームは島式ホーム1面2線となっており、こちらの上の画像は天王寺・東梅田・大日方面2番ホームを駅名標を入れて撮影したものです。


こちらの上の画像は22系八尾南行きと駅名標を絡めて撮影したものです。


次も少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「平野区長吉長原西一丁目1」であります。


その「平野区長吉長原西一丁目1」の住所に該当するのは大阪メトロ谷町線出戸駅で、こちらの上の画像は街区表示板の住所にある大阪メトロ谷町線出戸駅3号出入口であります。


こちらの上の画像は大阪メトロ谷町線出戸駅の切符売り場を撮影したものです。


この大阪メトロ谷町線出戸駅の出入口には出戸バスターミナルに直結してる出入口があり、案内もされています。


この大阪メトロ谷町線出戸駅のホームは島式ホーム1面2線となっており、こちらの上の画像は天王寺・東梅田・大日方面2番ホームを駅名標を入れて撮影したものです。


こちらの上の画像は22系八尾南行きと駅名標を絡めて横から撮影したものです。


またこの大阪メトロ谷町線出戸駅の西側にはかつて阪和貨物線が走っていましたが、現在も跡地が空地のまま残っております。こちらの上の画像は北側の長居公園通りの方を臨んだものです。


こちらの上の画像も先ほどの阪和貨物線の跡地を撮影したもので、南側の大和川の方を臨んだものです。


次はほんの少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「平野区喜連東五丁目16」であります。


その「平野区喜連東五丁目16」の住所に該当するのは大阪シティバス出戸バスターミナルで、こちらの上の画像は出戸バスターミナルを北側の出入口から撮影したものであります。


こちらの上の画像は出戸バスターミナルのバスのりばを撮影したものです。


このバスのりばには先ほどの大阪メトロ谷町線出戸駅へ繋がる階段があります。


こちらの上の画像は出戸バスターミナルを南側の出入口から撮影したものです。


最後になりますが、こちらの上の画像は右側に先ほどの出戸バスターミナルを南側の出入口と壁を隔ててすぐ左側にある現在空地となっている阪和貨物線の跡地を入れて撮影したものです。


今回の平野区の鉄道路線は1980年に大阪市営地下鉄(現在の大阪メトロ)谷町線天王寺-八尾南間が延伸開業するまでは区内北部を走る国鉄(現在のJR)関西本線と谷町線の延伸開業と引き替えに廃止となった南海平野線のみでしたが、大阪市営地下鉄(現在の大阪メトロ)谷町線天王寺-八尾南間が延伸開業されてからはそれまで鉄道空白地帯だった区内南部にも駅が設置されて利便性が向上し、2008年3月15日にはJRおおさか東線が放出-久宝寺間が部分開通して新加美駅が開業してからは大阪市の中心部を経由せずに大阪市東部へ直接アクセスできるようになり、更に2019年3月16日におおさか東線新大阪-放出間が延伸開業してからは大阪市中心部を経由せずに大阪市北東部や北摂地域へのアクセスもできるようになって格段に利便性が向上したと思います。あと個人的には住之江公園-喜連瓜破間を結ぶ大阪メトロ9号線(敷津長吉線)が建設されればとより利便性が高くなると思うのですが、JRが阪和貨物線を旅客化せずに廃線にしてしまったことや大阪シティバス4系統住之江公園-出戸バスターミナル間の運転本数を考えますとやはり厳しいのかなと思ってしまいます。


今回も毎度のことながら記事の内容・画像とも粗い感じで申し訳ございませんが、今後もご愛顧のほどよろしくお願い致します。


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