今回は約1ヵ月ぶりとなる「街区表示板と鉄道の旅 大阪市24区編」の記事となりますが、第18回となる今回は阿倍野区でございます。今回の阿倍野区は1943年に住吉区から分離されて誕生した区で、大阪市編入前の旧天王寺村(1897年大阪市第一次市域拡張以降の区域)の大半と、田辺町(現在の桃ヶ池町・長池町・西田辺町の一部)・住吉村(現在の北畠・帝塚山)・長居村(現在の播磨町・阪南町・西田辺町の一部)のそれぞれ一部が現在の区域となりました(詳しくはWikipediaをご覧ください)。
それでは今回の阿倍野区最初の街区表示板ですが、本来の「阿倍野区阿倍野筋一丁目1」の住所の街区表示板を見つけることができませんでしたので、4番違い(近い番地のものも見つかりませんでしたので。。)の左の街区表示板の画像の「阿倍野区阿倍野筋一丁目5」からのスタートであります。
その4番違いの「阿倍野区阿倍野筋一丁目5」の住所に該当するのは3カ所ありまして、まず最初の1カ所目は近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅であります。
こちらの上の画像は大阪阿部野橋駅西口の切符売り場を撮影したものです。
こちらの上の画像は大阪阿部野橋駅西改札口を撮影したもので、こちらの改札口は一番古くからある改札口であります。
こちらの上の画像は大阪阿部野橋駅東改札口を撮影したもので、こちらの改札口は地下で1987年9月に開設されました。
こちらの上の画像は大阪阿部野橋駅東改札口から改札内に入ったところを撮影したもので、改札内も地下ですので階段及びエスカレーターで地上のホームへアクセスすることなります。
近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅のホームの構造は櫛形6面5線のホームで、こちらの上の画像は1・2番線ホームを撮影したものです。1・2番線ホームは主に普通列車の発着に使用されており、現在のところ可動式ホーム柵は設置されておりません。
こちらの上の画像は3番線ホーム降車側から撮影したものですが、3番線ホームの乗車側に可動式ホーム柵が設置されていることが確認できます。
こちらの上の画像は4番線ホームに停車する6422系+?による河内長野行き準急を撮影したものですが、4番線ホームの乗車側にも可動式ホーム柵が設置されていることが確認できます。
こちらの上の画像は可動式ホーム柵が設置された4番線ホームから5・6番ホーム側を見たところを駅名標を入れて撮影したものです。
こちらの上の画像の5・6番ホームは5番のりばが主にラッシュ時の急行・区間急行用、6番のりばが特急用のりばとなっており、こちらも現在のところ可動式ホーム柵は設置されておりません。
そして、4番違いの「阿倍野区阿倍野筋一丁目5」の住所に該当する2カ所目は大阪メトロ御堂筋線天王寺駅で、こちらの上の画像は大阪メトロ御堂筋線天王寺駅西改札口であります。因みに谷町線の天王寺駅は阿倍野区でなく、所在地は「天王寺区茶臼山町5」となります(以前天王寺区編で取り上げました)。
こちらの上の画像は大阪メトロ御堂筋線天王寺駅東改札口を撮影したものです。
この大阪メトロ御堂筋線天王寺駅のホームの構造は単式ホームと島式ホームによる2面3線の構造となっております。こちらの上の画像1番線ホームなかもず方面のりばから駅名標を入れて撮影したホームの様子です。御堂筋線開業当初の区間ではありませんが、戦前の頃の延伸区間だけあって天井も高くて広々としています。
またこの御堂筋線天王寺駅には中二階があり、中二階からシャンデリアを撮影しました。御堂筋線の他の駅でも以前は見ることがシャンデリアですが、梅田駅ように駅のリニューアルによって見ることができなくなった場合もありますので、こちらの天王寺駅のシャンデリアもなくならないことを願うばかりです。
そして、4番違いの「阿倍野区阿倍野筋一丁目5」の住所に該当する3カ所目は阪堺電気軌道上町線天王寺駅前停留場であります。こちらの上の画像は阿部野橋歩道橋の北東側から阪堺電気軌道上町線天王寺駅前停留場を撮影したものですが、かなりトリミングしております。
こちらの上の画像は阿部野橋歩道橋から阪堺電気軌道上町線天王寺駅前停留場への入口を撮影したものです。
こちらの上の画像は軌道移設前からある阪堺電気軌道上町線天王寺駅前停留場へと繋がる地下通路で、2016年12月の軌道移設後は停留場ののりばが少し南に移動したことから通路も少し南へ延伸されました。
また2016年12月の軌道移設後にはあべのキューズモール側の地下からもアクセスできるように出入口が設けられました。
こちらの上の画像は天王寺駅前停留場の改札を撮影したものですが、右側が天王寺駅前停留場の改札口、左側が定期券や回数券、オトクなきっぷを取り扱う窓口となっております。
こちらの上の画像は2016年に天王寺駅前停留場の駅名標を入れてホームとモ701形モ707を絡めて撮影したものです。
こちらの上の画像は同じく2016年に軌道移設前の天王寺駅前停留場の駅名標を入れてホームとモ701形モ703を絡めて撮影したものです。
こちらの上の画像は阿部野橋歩道橋から軌道移設前の天王寺駅前停留場界隈の様子を撮影したものです。
次は少し移動しまして、本来は「阿倍野区晴明通12」の街区表示板を掲載したかったのですが、自分には見つけられませんでしたので、1番違いの左の街区表示板の画像の「阿倍野区晴明通11」であります。
その1番違いの「阿倍野区晴明通11」の住所に該当するのは阪堺電気軌道上町線東天下茶屋停留場上りホームで、こちらの上の画像は阪堺電気軌道上町線東天下茶屋停留場上りホームを撮影したものです。
そして、阪堺電気軌道上町線東天下茶屋停留場上りホームの南寄りには馬車鉄道跡の石碑と説明板があります。
馬車鉄道跡の石碑の側面には「軌道上の客車を馬に牽かせた鉄道が明治三三年(一九〇〇)四天王寺西門前から東天下茶屋間に開通した 明治四一年に廃され 同四三年から電化された これが現在の阪堺電気軌道上町線となった」と記されていまして、今年は阪堺電気軌道上町線の前身となる大阪馬車鉄道の四天王寺西門前から東天下茶屋間が1900年に開通してからちょうど120年ということとなります。
そして、説明板には「馬車鉄道跡 明治三〇年(一八九七)、大阪馬車鉄道株式会社が設立され、同三三年に天王寺西門から東天下茶屋間が開通した。これは軌道上の客車を馬に牽かせた鉄道で、たちまち繁盛し、二年後には下住吉まで延長された。 この馬を操る人をベット(「別当」=ここでは馬の口取りの意)といい、尻取り歌にも「走るはベット、ベットは偉い…」などと歌われた。 その後、沿線一帯の開発とともに、電化の計画が立てられ、同三九年三月に社名を大阪電車鉄道と改め、さらに同四十一年にいたって馬車鉄道は廃止されることになった。同四三年から天王寺西門から住吉前までの電化による営業が開始された。これが現在の阪堺電気軌道上町線の端緒となった。 大阪市教育委員会」と記されています。
最先端の街並みへと変貌した阿部野橋界隈と違って現在も昔ながらの街並みが多く残るこの東天下茶屋停留場付近の風景は昭和生まれの自分にとってはどこか心落ち着くものがあります。
次も少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「阿倍野区帝塚山一丁目8」であります。
その「阿倍野区帝塚山一丁目8」の住所に該当するのは阪堺電気軌道上町線姫松停留場上りホームで、こちらの上の画像は阪堺電気軌道上町線姫松停留場上りホーム側にある待合室を撮影したものです。
この阪堺電気軌道上町線姫松停留場上りホーム側にある待合室は以前にも記事にしました故・加川良さんの1974年発表の4枚目のアルバム『アウト・オブ・マインド』のジャケットにもなりました。
こちらの上の画像は姫松停留場上りホームに停車するモ351形モ354です。
この阪堺電気軌道上町線姫松停留場界隈は阿倍野区と住吉区にかけてある高級住宅地の帝塚山の中心部ともいえる地点で、姫松停留場のすぐ南側には南北に走る電車道と東西に走る幹線道路の大阪府道5号大阪港八尾線(通称:南港通)の交差点が姫松交差点があり、東西に走る幹線道路の大阪府道5号大阪港八尾線(通称:南港通)を境に北側が阿倍野区、南側が住吉区となっております。こちらの上の画像は住吉区側となる姫松交差点南東側から姫松交差点を撮影したものです。
次も少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「阿倍野区西田辺町一丁目1」であります。
その「阿倍野区西田辺町一丁目1」の住所に該当するのは大阪メトロ御堂筋線西田辺駅で、こちらの上の画像は街区表示板の住所にある大阪メトロ御堂筋線西田辺駅2号出入口を撮影したものです。
この大阪メトロ御堂筋線西田辺駅のホームの構造は相対式ホーム2面2線となっており、改札口は両ホームにそれぞれ設けられていて、それぞれのホームを行き来する場合は江坂寄りの連絡通路を利用します。こちらの上の画像は1番線ホームのあびこ・なかもず方面のりばへの改札口を撮影したものです。
こちらの上の画像は反対側の2番線ホームの天王寺・なんば・梅田・新大阪・千里中央方面のりばへの改札口を撮影したものです。
こちらの上の画像は同じく2番線ホームの天王寺・なんば・梅田・新大阪・千里中央方面のりばから撮影したもので、上りと下りの線路の間の柱にある電照式の駅名標と21系を絡めて撮影しました。
次も少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「阿倍野区西田辺町二丁目3」であります。
その「阿倍野区西田辺町二丁目3」の住所に該当するのはJR阪和線鶴ケ丘駅で、こちらの上の画像はJR阪和線鶴ケ丘駅南口を撮影したものです。
こちらの上の画像は東住吉区側からJR阪和線鶴ケ丘駅東口を撮影したもので、このJR阪和線鶴ケ丘駅と隣の南田辺駅は阿倍野区と東住吉区との境界線にあり、2006年5月21日に高架化が完了するまでの鶴ケ丘駅の地上駅時代の所在地は「東住吉区山坂五丁目1」、南田辺駅の地上駅時代の所在地は「東住吉区山坂二丁目1」でしたが、高架化されたことによって駅が西側に移動したことで阿倍野区に所在地が変更されました(隣の南田辺駅の現在の所在地は「阿倍野区長池町4」)。
こちらの上の画像はJR阪和線鶴ケ丘駅の改札口と切符売り場を撮影したものですが、駅舎内の柱は最寄の長居陸上競技場と長居球技場を本拠地とする日本プロサッカーリーグのセレッソ大阪の広告となっております。
こちらは改札内で撮影したものですが、同じく柱はプロサッカーチームのセレッソ大阪の広告となっております。
更にエスカレーターには選手の写真が貼られています。こちらの上の画像は1・2番線ホームへのエスカレーターを撮影したものです。
こちらの上の画像は反対側の3・4番線ホームへのエスカレーターを撮影したもので、こちらにも選手の写真が貼られています。
さらに階段にはチームキャラクターのロビーに選手やサポーターの方々の写真が貼られています。こちらの上の画像は1・2番線ホームへの階段を撮影したものです。
こちらの上の画像は反対側の3・4番線ホームへの階段を撮影したもので、こちらにもチームキャラクターのマダムロビーに選手やサポーターの方々の写真が貼られています。長居陸上競技場と長居球技場へのJRとしての最寄り駅ということでセレッソ大阪の広告が大々的なのがよくわかります。
そして、このJR阪和線鶴ケ丘駅のホームの構造は現在島式ホームは2面4線で通過列車の待避可能となっておりますが、地上駅時代は相対式ホーム2面2線で、通過列車の待避は地上駅時代は島式ホーム2面4線であった隣の長居駅で行われていました。
こちらの上の画像は1・2番線ホームの和歌山寄りから撮影したもので、中央のマンションを挟んで右側に長居球技場の屋根、左側に小さく長居陸上競技場の屋根とセレッソ大阪の本拠地が見えているのが確認できます。
このJR阪和線鶴ヶ丘駅は待避が可能なホームの構造ですので普通列車による特急列車や快速列車の通過待ちはよく見られる風景ですが、ダイヤによっては待避しない場合もありますので、この上の画像のように待避しない普通列車の停車しているところを撮影することもできます。
次も少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「阿倍野区美章園二丁目18」であります。
その「阿倍野区美章園二丁目18」の住所に該当するのはJR阪和線美章園駅です。こちらの上の画像はJR阪和線美章園駅の外観を撮影したものですが、駅舎はとんがり三角の屋根が特徴的な造りとなっております。
こちらの上の画像はJR阪和線美章園駅の改札口を撮影したものです。
このJR阪和線美章園駅のホームの構造は相対式ホーム2面線で、こちらの上の画像は美章園駅2番線ホーム中央付近から架線柱を中心に和歌山寄りを撮影したものです。
こちらの上の画像も同じく美章園駅2番線ホーム中央付近から架線柱と駅名標を入れて天王寺寄りを撮影したものです。
こちらの上の画像も美章園駅2番線ホームの和歌山寄りから和歌山方面を架線柱を意識して撮影したものですが、この架線柱は現在のJR阪和線が民営化される前の国鉄阪和線が国有化される以前の阪和電気鉄道時代からの架線柱で、他のJRの路線の架線柱とは違った独特の形状をしており、阪和線が元々私鉄だったことがわかる鉄道遺産ともいえると思います。
こちらの上の画像は美章園駅1番線ホームに停車する223系を阪和電気鉄道時代からの架線柱とJRの駅名標を入れて撮影したものです。
次も少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「阿倍野区天王寺町南二丁目24」であります。
その「阿倍野区天王寺町南二丁目24」の住所に該当するのは近鉄南大阪線河堀口駅で、こちらの上の画像は近鉄南大阪線河堀口駅の外観を南西側から撮影したものです。
そして、こちらの上の画像は先ほどの画像の場所から少し東側に移動して振り向いて近鉄南大阪線の高架橋がJR阪和線の高架橋を跨ぐ北西側を撮影したものであります。1987年12月6日に近鉄南大阪線大阪阿部野橋―針中野間が高架化されるまでは近鉄南大阪線が地上を走り。JR阪和線の高架橋が近鉄南大阪線を跨いでましたが、その地上から高架に切り替わる頃に通学で近鉄南大阪線を利用してましたので高架化で景色が一変したのを今でも鮮明に覚えております。
近鉄南大阪線河堀口駅のホームの構造は相対式ホーム2面2線となっております。
こちらの上の画像は2009年に河堀口駅のホームから撮影した16000系吉野行き特急です。
次も少し移動しまして、本来は「阿倍野区昭和町一丁目1」の街区表示板の画像を掲載したかったのですが、自分には見つけられませんでしたので、1番違いの左の街区表示板の画像の「阿倍野区昭和町一丁目2」であります。
その1番違いの「阿倍野区昭和町一丁目2」住所に該当するのは大阪メトロ谷町線文の里駅であります。こちらの上の画像は街区表示板の住所にある大阪メトロ谷町線文の里駅4号出入口を撮影したものです。
こちらの上の画像は大阪メトロ谷町線文の里駅の切符売り場と改札口を撮影したものです。
この大阪メトロ谷町線文の里駅のホームの構造は島式1面2線となっております。こちらの上の画像はこちらの上の画像は2番線天王寺・東梅田・大日方面のりばを駅名標を入れて撮影したものです。
こちらの上の画像は1番線八尾南方面のりばに停車する22系と駅名標を絡めて撮影したものです。
そして、ホームでの撮影を終えまして、阪神高速松原線の真下で八尾南寄りの出入口となる7号出入口から地上に出て参りました。
この7号出入口の八尾南寄りには谷町線が延伸開業された日まで走っていた南海平野線の文ノ里停留場(現在の谷町線文の里駅は平仮名の「の」と明記しますが、南海平野線の文ノ里停留場は片仮名の「ノ」と明記されていました。)がありました。画像の「文の里明浄通商店街」も南海平野線が走っていた頃からあり、南海平野線の最終営業日には停留場近くにある明浄学院高等学校の吹奏楽部による「蛍の光」の演奏があったそうです。また画像の左端に写っているのは南海平野線文ノ里停留場があったことを記す説明板であります。
その説明板には「南海平野線と文ノ里停留場 南海平野線は南海電鉄が経営する軌道線の一つとして今池から平野までの五.九キロを昭和五十五年十一月二十七日まで運転していました。 平野線は、当初阪南電気軌道が西成郡今宮村今池から東成郡平野郷町までの間に軌道施設を計画、大正二年阪堺電軌が同社を合併し、翌年四月二十六日に今池―平野間の運転を開始しました。 その後大正十四年六月二十一日南海電鉄と合併して南海平野線となり発展する沿線利用旅客の激増に対応し、昭和四年天王寺駅前―平野間直通運転を実施しました。 文ノ里駅は大正十二年に作られ、戦後の最盛期にはおよそ一万一千人の旅客が乗降し、出札駅舎も設けられていました。 戦後は大阪市バスの路線増設をはじめ、自動車の普及と地下鉄線の新設により利用旅客は年々減少の一途をたどりました。 昭和四十八年三月、地下鉄谷町線天王寺―八尾南間の工事が開始され、約七年八か月を経た昭和五十五年十一月二十七日、同線の運転開始と同時に平野線は六十六年間続いた旅客営業を廃止しその歴史を閉じました。 昭和五十五年十二月 南海電気鉄道株式会社」と記されており、現在の大阪メトロ(当時は大阪市営地下鉄)谷町線の延伸開業日まで運転されていた南海平野線の存在がこの文の里駅界隈の発展に寄与したことがよくわかるものとなっております。
次も少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「阿倍野区阿倍野筋三丁目9」であります。
その「阿倍野区阿倍野筋三丁目9」の住所に該当するのは大阪メトロ谷町線阿倍野駅で、こちらの上の画像は街区表示板の住所にある大阪メトロ谷町線阿倍野駅3号出入口を撮影したものです。
こちらの上の画像は先ほどの大阪メトロ谷町線阿倍野駅3号出入口から繋がっている南改札口と切符売り場を撮影したものです。
そして、大阪メトロ谷町線阿倍野駅のホームの構造は島式1面2線となっております。
こちらの上の画像は2番線天王寺・東梅田・大日方面のりばを駅名標を入れて撮影したものです。
こちらの上の画像は1番線八尾南方面のりばに停車する30000系と駅名標を絡めて撮影したものです。
そして、こちらの上の画像は北改札口に繋がる階段とエスカレーターですが、
階段とエスカレーターの上にある案内は近鉄電車への乗換えを案内するものとなっております。この阿倍野駅は真上にある阪堺電気軌道上町線の阿倍野停留場との乗換駅でありますが、約200m離れた近鉄大阪阿部野橋駅とも乗換え対象の駅となっております。
こちらの上の画像は阿倍野駅から地上に出たところの阿倍野交差点を北西側から撮影したもので、現在は南北に阪堺電気軌道上町線が走っておりますが、かつて東西には大阪メトロ谷町線天王寺―八尾南間が延伸開業した1980年11月27日まで南海平野線が走っていました(現在の阿倍野交差点はかつて近くに阿倍野斎場があったことから「斎場前交差点」という名称でした)。当時の南海平野線阿倍野(斎場前)停留場上りホームは画像の自動車が数台停車している辺りの阪神高速松原線の橋脚寄りにあり、下りホームは画像の左端にある木の少し奥辺りにありました(平野線阿倍野(斎場前)停留場の(斎場前)は先述しました阿倍野斎場があったことと上町線の停留場と区別するために副称としてついてましたが、平野線廃止とともなくなりました)。
こちらの上の画像は同じく阿倍野交差点からかつて南海平野線が走っていた今池方面を撮影したもので、画像の左端には平野線で使われていた架線柱が写っております。
この平野線時代からある架線柱は現在も東玉出変電所から上町線へ送電するために使用されております。
そして、こちらの上の画像は架線柱の表示を拡大して撮影したものですが、表示を見ますと左下に南海電鉄の社章があり、右下に「昭.36.」と記されており、南海平野線時代の昭和36年に建てられたものと確認できます。
最後はほんの少し移動しまして、左の街区表示板の画像の「阿倍野区阿倍野筋三丁目10」であります。
その「阿倍野区阿倍野筋三丁目10」の住所に該当するのは阪堺電気軌道上町線阿倍野停留場上りホームで、こちらの上の画像は阿倍野筋東側から阪堺電気軌道上町線阿倍野停留場上りホームを撮影したものです。
こちらの上の画像は上町線阿倍野停留場上りホームに停車するモ601形モ604を撮影したもので、背景には阿倍野再開発初期1987年9月に開業したあべのベルタとロゴマークが写っております。上町線の上りホームはかつて阿倍野交差点の南側にありましたが、あべのベルタの開業とともに現在の場所に移設されました。
こちらの上の画像は阿倍野停留場下りホームを通過するモ701形モ702で、以前は下りホームも上りホームの向いに設置されていましたが、軌道移設後は上りホームより北側に設置されるようになりました。
こちらの上の画像は軌道移設以前の阿倍野停留場上りホームに2016年4月に特別運行されたモ161形モ161で、下りホームも手前に写っていることが確認できます。
こちらの上の画像は阿倍野交差点南西側から今年デビューした阪堺電車の新型車両1101形1101とあべのハルカスを絡めて撮影したもので、1976年から始めった阿倍野再開発事業が40年以上経った2018年にようやく完了したのが現在の姿で、見事に最先端の街へ変貌しました。
今回の阿倍野区は現在大阪メトロ御堂筋線・谷町線、近鉄南大阪線、JR阪和線、阪堺上町線が走っており、大阪市の都心部へアクセスする際にそれらの路線はすべて天王寺・阿部野橋を通る形となりますが、天王寺・阿部野橋界隈も都心部に入ると思いますので阿倍野区内からだと経由するのは必然だといえると思います。また南海平野線時代は天王寺・阿部野橋を通らずに恵美須町を経由して都心部にアクセスする手段もありましたが、当時の大阪市営地下鉄谷町線が1980年11月27日に当時の南海平野線区間も含めて延伸開業してからは御堂筋線天王寺―梅田間のバイパス路線としての役割をフルに発揮することとなりましたので廃止も致し方なかったのだと思います。またこの阿倍野区も天王寺区と並んで文教地区で、住環境も良く、約40年かかった阿倍野地区再開発も完了して最先端の街並みとなったと思えば、商店街などの昔ながらの風景も数多く残っている地域もあり、今昔入り混じって勢いを感じる街だと個人的には思いました。
今回も毎度のことながら記事の内容・画像とも粗い感じで申し訳ございませんが、今後もご愛顧のほどよろしくお願い致します。